まちのライフラインとしてのアートの可能性と美術館の役割
これまで見てきたように、CAMKは、まちと協働する活動を様々に展開してきた。またその時々に旗振り役を担ってきた日比野氏が館長に就任し、市役所に赴いて職員と意見交換を行う「ご用聞き」をプログラム化することで、市民の声が集まる市役所とともに、まちの課題の解決策を議論する枠組みをつくりだした。そして「ご用聞き」での議論を契機として「総合計画展」を開催し、市民が、アートと関連付けながら、自然に市の上位計画である第8次総合計画を感じて、考えるきっかけを創出した。
このようなCAMKの活動は、地方自治と美術館の新たな関係性へのチャレンジであるように思われる。一般的に地方自治において、行政は、市民の声に応える形で行政計画を策定し、それに基づく政策などを進めていく。しかしながら実際には、計画策定プロセスにおける限定的な市民参加や、または、策定された計画の認知向上に関する取組の不足により、総合計画でさえ、見たことのある市民はごく一部である。すなわち行政計画と市民の声は、放っておけば乖離していくものである。それに対してCAMKは、「ご用聞き」によって、市民の声やまちの課題の解決に関する議論の場を生み出すとともに、「総合計画展」によって、地方自治に関する市民の認知や関心をゆるやかに高めていく。こうしてCAMKは、市民と行政から中立な立場をとりながらも、市民の声と行政計画との距離を近づけるサイクルを回す歯車として機能しつつある(図5)。

宇野重規は、民主主義において何を信じるべきか、という問いに対して、①公開による透明性、②参加を通じての当事者意識、③判断に伴う責任、の3つを挙げた2)。特に②については、地域の自治活動への参加や選挙での投票から、政党員や被選挙人になるなど、参加の方法は幅広いが、現在の自治会の参加率や投票率の低さをみるに日本では全国的な課題がある。近年は、バルセロナにおけるDecidimや、台湾のオードリー・タン氏による政策など、市民参加を円滑化するデジタルテクノロジーの活用による民主主義の発展が見られるが、日本では、そもそも市民参加のスタートラインに立つ人を増やす、すなわち、自治意識を高めることが重要ではないか。まずは、行政の総合計画を知る、関心を持つ、さらに議論をする、パブリックコメントを書く機会を増やす、ということが、行政側の努力としても大切である。その際に、美術館を開く熊本市の取り組みは示唆に富んでいる。
アートに触れることは、自律性や想像力を養い、多様性を尊び、越境する気持ちを芽生えさせる。そうして、他者やそれが持つ思考と交流する機会ともなる。美術館というフィルターを通じて観ることで、より多角的に、客観的に、行政計画を考えられるのではないか。また、世間一般にある「絵や彫刻などを観る場所」という美術館のイメージを変え、都市の公共性における美術館の役割をあらためて定義していくのではないかと期待させる。
興味深いことに熊本市では、文化芸術推進基本計画の策定委員会において、「アートはライフラインであるか」という議論がなされた3)。実はこのテーマは、委員会開催の直前に、政策企画課へのご用聞きでも議題にあがっている。コロナ禍において我々は、文化芸術は不要不急なものでなく、日常に彩りを与え、生活を豊かにする上で不可欠なものであることを実感したはずである。経済的な豊かさにかかわらず、文化芸術によって自身のいまの状況から一瞬でも解放される時間を誰しもが持つとするならば、アートは、市民一人ひとりにとってのライフラインになりえる。またそれだけでなく、美術館が「まちの未来を考える場」となり、アートがまちの問題解決に資する仕掛けとして機能する時、アートはまちにとってのライフラインでもある。アートは、水道や電気のように、市民生活のライフラインになりえるのか。熊本市では、そのような議論が始まるに値する、アートへの社会的信用が培われつつあるように思われる。
参考文献
- 松村真宏『仕掛学 : 人を動かすアイデアのつくり方』東洋経済新報社, 2016
- 宇野重規『民主主義とは何か』講談社, 2020
- 熊本市 第2回熊本市文化芸術推進基本計画策定委員会(2024年5月20日開催)議事録 https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=54717&sub_id=3&flid=398917